聖ペーター教会(Peterskirche、または聖ペトロ教会)は、ウィーンの中心部に位置するローマ・カトリック教会で、1区の歩行者天国グラーベン通りから徒歩わずか10秒の場所にあります。テファン大聖堂やシェーンブルン宮殿などの観光名所に比べると規模は小さいため、観光スポットとしてはあまり目立ちませんが、長い歴史と壮麗な内装を誇るウィーンの名教会の一つです。
夜にはウィーン・クラシック・アンサンブルが定期的に1時間程度の短めでカジュアルなコンサートを開催しており、ベートーヴェンやビバルディなど、ウィーンにゆかりのある作曲家の楽曲をクインテットが演奏します。
そのため、個人的には「隠れた名教会」と呼んでも過言ではなく、ウィーンを訪れた際にはぜひ立ち寄ってほしい場所です。また、教会の歴史を知ることで、訪問がさらに楽しいものになると思いますので、ぜひ本解説記事をお読みください。
基本情報
営業時間
執筆時点(2024年9月26日)では、平日8時〜19時、土日9時〜19時に空いています。変更の可能性があるので、最新情報は公式サイトを参照ください。なお、日曜日の10時からはミサが行われていて信者以外は入場できません。また、懺悔(告解)の時間は毎日10時から12時および16時から18時となっています。この時間帯にも入場は可能ですがエントランスの後ろまでしか入れません。以下のように、ロープで教会内部には入れないようになっています。
上記の時間帯を避けて訪れると、教会内をしっかりと見学することができます。なお、照明がついているのは、懺悔の時間のみです。
写真を取る場合は、昼は日差しが差し込んで逆行になりがちなので、夕方以降の時間にいくことをおすすめします。
入場料
入場は完全に無料です。
時折、寄付を求める職員の方がいますが、強制ではありません。
オルガンコンサート
ほぼ毎日15時("Orgel um drei"「3時のオルガン」)および19時("Orgel um 19 Uhr"「19時のオルガン」)に、無料の30分のオルガンコンサートをやっています。ソプラノ歌手の中島桃子さんなど、日本人の方が演奏することは少なくありません。2024年9月でも、2,3回は日本人が演奏をしていました。
キャストや演目は公式ホームページからご確認ください。コンサート自体は無料であるものの、寄付を求められることがあり、雰囲気的に払うことになると思います。現金10ユーロくらいは持っていくと良いでしょう。
聖ペーターって誰?
聖ペーター(ペテロ)とは、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストの十二使徒の一人で、最初の弟子です。初代ローマ教皇とされており、シモンなどと呼ばれることもあります。そのため、バチカン市国にも彼の名前に由来するカトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂があります。
ウィーンの守護聖人の一人として聖ペーターが選ばれています。聖ペテロの特徴として1)天国への鍵を持っていること2)黄色の服を着ていること3)ハゲて髭を生やしていること4)逆十字架を持っていることが挙げられます。
歴史
聖ペーター教会の歴史を簡単に解説します。
ロマネスク様式の初代教会の建設
現在のウィーンは、古代ローマ帝国の駐屯地であった頃、ウィンドボナ(Vindobona)と呼ばれていました。8世紀ごろに、そのウィンドボナにこの教会が建設されたとされ、ウィーンで2番目に古い教会です。なお、ウィーンで最も古い教会は同じく1区にある聖ルーペルト教会(Ruprechtskirche)です。
公式サイトでは4世紀に建設されたと記載がありますが、他の文献では8世紀に建設されたとするものが多く見られます。一説には、フランク国王カール大帝(シャルルマーニュ)によって建設されたとされていますが、その根拠は見つかっていません。
また、公式サイトによると最初の教会はロマネスク様式で建設されたとされています。
そしてこの教会が初めて歴史書に登場するのは1137年で、最初の教会は以下のようなものでした。
出典:"History & Guidance", St.Peter Church
ロマネスク様式の始まりは960年頃だと言われているので、正確にはロマネスク様式には当たらないと思うので、プレ・ロマネスク様式のことを言っているのではないかと思います。
ステファン大聖堂の管轄下に
この教会は、1137年にこの教会から徒歩1、2分の場所にあるオーストリアで最も有名な教会、ステファン大聖堂の教区司祭の管轄下に入りました。
カトリック教会に詳しい方であればご存知かもしれませんが、カトリック教会の宗教組織は教区ごとに管轄が分かれています。ステファン大聖堂は「大聖堂」なので、キリスト教(特にカトリック教会、聖公会、正教会)の主教座(司教座)が置かれる教会のことを指し、ウィーンのこの地域の教会のトップはステファン大聖堂だった、ということです。
この時期のウィーンは、神聖ローマ帝国の大きな街として発展し始めていました。既存の教会では対応しきれないほど信者が増加しており新たな教会の建設が求められていました。1137年にはステファン大聖堂の建設が始まり、ウィーンにおけるキリスト教の影響力が強まっていった時代です。
ペストの到来と再建設
14世紀頃、ヨーロッパ全土でペストが大流行し、総人口の3分の1または4分の1が犠牲になったとされています。当時は原因が不明で、ユダヤ人のせいだといったデマも飛び交い、人々は得体の知れない死の恐怖に怯え、心の支えが必要でした。
ウィーンでは17世紀になってペストが再流行し、特に1679年は「大ペスト」と呼ばれ、当時のウィーンの人口の半数を上回る約8万人が亡くなりました。
当時の神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世に属する三位一体兄弟会が、ペストの終息を祈願して、再建を決定しました。
今あるバロック様式の聖ペーター教会に
教会は1701年頃に着工し、建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって設計されました。この教会は、バチカン市国にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂の影響を受けています。1722年頃に建物はほぼ完成し、1733年に三位一体兄弟会に捧げられました。当時のウィーンでは、最初のドーム型のバロック様式の教会でした。1737年の聖ペーター教会の様子は以下の通りで、いま見られる教会が正確に描写されています。
出典:Peterskirche, Wien Geschichte Wiki
教会は限られた敷地を有効活用するため、楕円形のコンパクトな形状をしており、内部は黄金のスタッコ装飾が施されています。バロック様式らしく、強烈な明暗・激しい動きが魅力的です。
その後の1970年、ウィーンのオーストリア枢機卿カーディナル・ケーニヒ(Kardinal König)によって、ローマ・カトリック教会の組織オプス・デイ(Opus Dei)の司祭に譲渡されました。
設計者:ルーカス・フォン・ヒルデブラント
ベルヴェデーレ宮殿を手掛けたオーストリア人建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラント(Johann Lukas von Hildebrandt)によって設計されました。ウィーンでは初めてのバロック様式の教会でした。
オーストリア人といえどヒルデブラントはイタリア・ジェノバ出身で、イタリア人の母とドイツ人の父から1668年に生まれました。28歳のときにオーストリア・ウィーンに移住し、数々の著名人のために作品を設計し続けました。
ベルヴェデーレ宮殿にとどまらず、同じくウィーンのキンスキー宮殿、ザルツブルグのミラベル城や、ハンガリーのザヴォイエン城など数々の名建築の設計をしました。
見どころ
聖ペーター教会の主な見どころを、以下のフロアプランの番号で紹介します。
出典:"History & Guidance", St.Peter Church
1番:ファサード・ポータル
教会の入り口(外側)にある、オーストリア出身の建築家・画家のアンドレア・アルトモンテ(Andrea Altomonte)が手掛けたロココ調のポータルがあるファサードです。
ポータルの中心には、初代ローマ教皇とされている聖ペーターがイエス・キリストから天国と地上の鍵を授けられたことは新約聖書「マタイによる福音書」16章19節に所以して、鍵とローマ教皇の象徴のティアラ(三重の冠、教皇冠ともいう)があります。
そして、それを囲むように「希望・信仰・愛」という3つのキリスト教の三大美徳を示しています。
左の像は、錨で「希望」が表現されています。キリストの宗教画では、よく錨が描かれる事が多く、錨は強風に吹かれようと荒波に飲まれようとしっかりと船に支えるように、試練、不安や苦しみの中でも揺るぎない信仰や神との契約を表しています。新約聖書『ヘブライ人への手紙』6章19節「わたしたちのこの希望は、安全で確かな魂の錨であり、幕の内側まで入り込んで入っていくのです」にあるように、揺るぎない希望を示しています。
右の像は、聖母マリアを代表とする、無償の「愛」を表していて、人間相互の献身的な愛、および、神から人間への愛も意味しています。新約聖書『ヨハネへの手紙4章8~9節』にも「神は愛です」とあり、「愛」というものはキリスト教ではとても大事な概念なのです。
頂点の像は、キリスト教の信仰の象徴である聖杯を持っている女性です。『マルコによる福音書』14章24節など共観福音書の「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である。」と、みんなで聖杯を飲んだことに所以します。また、足元の天使が持っているのが香炉で、煙のように祈りが点に昇り神に聞き届けられたこと疫病や悪(ここではペスト)をお祓いを象徴しています。
そして、ポータルの下には、レオポルド一世のペスト救済の誓いがあります。
これは『ヨナ書』2章10節「しかし、わたしは感謝の声をあげてあなたにいけにえをささげ、わたしの誓いを果たします。救いは主のものです。」の一節をオマージュしたものが記載されていて、この教会の再建設を決めた皇帝の悲願が感じ取れます。
2番:エントランスホールおよびオルガン
ロココ様式のパイプオルガンです。オルガンやベンチなどのデザインは、後ほど説教壇で登場するオーストリア出身の画家マティアス・スタインによって手掛けられています。オルガンの下にはイタリア人画家アントニオ・ガリ・ダ・ビビエナ(Antonio Galli da Bibiena)によるフレスコ画が天井に描かれてあります。
イエスが聖ペーターにガリラヤ湖をわたるように指示しているところです。この場面は『マタイによる福音書』14章22-33節に記されています。聖ペーターを含む弟子たちが湖の真ん中で逆風に遭い、波に悩まされていていました。しかし、イエスが湖の上を歩く奇跡を見て、信仰を試そうとして水の上を歩き出しましたが、恐れから沈み始めてしまい、結局イエスに助けられました。これは信仰の重要性と、困難な時にもイエスに頼ることの教訓を伝えています。
聖母マリアの絵画でよく見られる青や赤の服の構成がここで見られます。この教会の祭壇にも、この全く同じ構成があります。少し余談ですが、Wikipediaの聖母マリアの汚れなきみ心のページの写真には、聖ペーター教会のマリアの絵画が使われています。また、聖ペテロを象徴する黄色の服やハゲが見られます。
3番:ロットマイヤーの描いたフレスコ画「聖母マリアの被昇天」
この教会の最大の見どころは、何と言ってもオーストリア人画家ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーによる壮大なフレスコ画「聖母マリアの被昇天(Coronation of Our Lady)」でしょう。
2年かけて制作され、中心の聖母マリアや神や、その周辺に数々の聖人や旧約聖書の登場人物が登場します。画像右側から解説します。中心には戴冠される聖母マリアおよび神とキリストが描かれています。
ここでは、以下の使徒が描かれています。
使徒 | 象徴 | 理由 |
---|---|---|
聖ヨハネ | 鷲 | ヨハネの福音書だけが、他の福音書と異なる視点から書かれており、鷲のように鳥瞰していて、深い霊的な真実・神の視点を持っていると考えられているから。 |
聖ペトロ | 鍵 | キリストから天国への鍵を授けられたから。 |
聖パウロ | 書簡と血まみれの剣 | 聖パウロはローマ皇帝ネロの迫害によって殉職したが、ローマ市民権を持っていたことから十字架刑などではなく、比較的人道的な斬首によって処刑されたから。また、聖パウロが多くの書簡を書いて、信仰を広めたから。 |
聖マティア | 斧 | エチオピアにて伝道活動を行い、斧によって殉職したとされているから。 |
聖シモン | 鋸 | 諸説あるが、ペルシャやアルメニアで宣教活動をしていたとき、現地の政治権力によって、鋸で切断されたとされているから。 |
ここでは、使徒がそれぞれを象徴するものと一緒に描かれているということです。次に、左半分は以下のようになっています。
中心に大天使ミカエルが描かれ、その下に「ダビデ像」やゴリアテ討伐で有名な第2第イスラエル王国のダビデ王が鎮座しています。これは、ダビデ王が音楽の才能に恵まれ、しばしばハープを演奏していることは『サムエル記』などに記載されてあるからです。
他にも、ノアの方舟やエデンの園から追い出されるアダムとイブ、そして十戒が書かれた石板を持ち上げるモーセなど、旧約聖書の登場人物が多く描かれています。
中心部には、三位一体の精霊を示す鳩が描かれています。また、先ほどと同様に使徒が描かれています。
使徒 | 象徴 | 理由 |
---|---|---|
聖アントニウス | タウ(T字)十字架 | 彼が好み、『エゼキエル書』にも記載があり、保護や救済の象徴だから。 |
聖ステファノ | シュロの葉 | シュロの葉は殉職者に送られるが、彼は最初の殉職者だったから。 |
聖ラウレンティウス | 鉄格子 | ローマ皇帝ヴァレリアヌスの迫害によって、鉄格子の上で焼かれて殉職したから。 |
聖セバスティアヌス | 矢 | ローマ皇帝ディオクレティアヌスによって迫害された。そのときに、矢で射られて死にそうになるが、奇跡的に回復したから。 |
聖ヘレナ | 真の十字架 | 彼女がエルサレムでキリストが磔にされた「真の十字架」(True Cross)を発見したしたから。 |
聖アンドレスは見当たらなかったのですが、見つかったら紹介します。
4番:左説教壇
こちらも同じくマティアス・スタイン(Matthias Steinl)によって手掛けられていて、こちらの説教壇は三位一体を表現しています。
下部には、ソロモン王によって建設されたエルサレム神殿(ソロモン神殿)で教えられている12歳のときのイエスが描かれています。
5番:右祭壇『ネポムクの聖ヨハネ』
イタリア人彫刻家ロレンツォ・マティエッリ(Lorenzo Mattielli)による『ネポムクのヨハネ』でネポムクの聖ヨハネの殉教を表現しています。この聖ヨハネとは、イエス・キリストを洗礼したヨハネではなく、ボヘミア(今のチェコ共和国)で活躍した司祭で、信者の罪の告白の守秘義務である「告解の秘密」を守り通したことによって殉職したことで聖人として知られています。彼はボヘミア王ヴェンツェル4世の妃の告解を聞いていましたが、王は妃の告解の内容を聞き出そうとしました。その秘密を明かすことを拒み、守秘義務を守り通したため、キリスト教としては規範的な行いをしたのにもかかわらず、プラハのカレル橋からモルダウ側に投げ込まれて殉職します。
左下には殉職の証として、天使からシュロの枝が差し出されています。シュロの枝とは、エデンの園にある「いのちの木」のことで、神の祝福のシンボルなので、殉職者に捧げられる様子が描かれることが多いです。ウィーン中央墓地にある聖カール・ボロメウス霊園教会の祭壇画にも全く同様のデザインがあります。また、水中の5つの星はラテン語の「TACUI」(秘密を守った)を象徴しています。これは彼が川に投げ込まれた時、川の水面に5つの星が輝いたとされているからです。彼が水中で殉教したことと、その時に起こった奇跡を表しており、同時に彼の沈黙の美徳を象徴しているのです。そして、実際に水に投げ込まれようとする聖ヨハネが描かれていて、それを川に投げるように指示するボヘミア王ヴェンツェル4世と見られる男性が立っています。
信者の鑑といえる、彼の不屈の信仰の心が見て取れるでしょう。
6番:レオポルド一世の紋章
凱旋アーチの上にあるのは、この教会を再建し、今ある姿にした神聖ローマ帝国皇帝レオポルド一世の紋章があります。つまり、創設者をしっかり示しているわけです。
かつてのオーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国やハプスブルク家の紋章(国章)で見られる双頭の鷲の胸部に、レオポルド一世の紋章が備え付けられています。ちなみに、現在のオーストリアの国章は単頭を持つ鷲になっています。もともと、双頭の鷲は「東と西の統治」を意味し、広大な領土を持っていた神聖ローマ帝国やオーストリア帝国などにはふさわしかったものの、オーストリア共和国となったときに、その帝国主義的な考えに相反することから、単頭の鷲になりました。今とは違って、ヨーロッパの覇権を握り、野心あふれるオーストリアの勢いを感られます。
また、下部の"Consilio et industria"はラテン語で「知恵と勤勉をもって」で、オスマン帝国(第トルコ戦争)やフランス(大同盟戦争)との戦争を直面したオーストリアの指導者であるレオポルド一世の価値観が反映されたモットーです。
7番:祭壇
設計:アントニオ・ガリ・ダ・ビビエナによる高祭壇
先ほどのオルガン下のフレスコ画の作者であるアントニオ・ガリ・ビビエナが、会の主要な礼拝スペースの中心に位置する高祭壇をデザインしました。
高祭壇は大きな円柱で囲まれた構造をしており、中央の祭壇画を強調するために設計されています。これにより、視覚的にドラマティックな効果を生み出しています。
祭壇画:マルティーノ・アルトモンテによる祭壇画「エルサレムにおける聖ペーターと聖ヨハネによる足萎えの癒やし」
ここも、本教会の守護聖人である聖ペーターに関連する聖書の奇跡を描いています。ここで描かれているのは新約聖書の使徒言行録3章1-10節に描かれている場面です。
生まれつき足の不自由な男が、毎日そこに運ばれて物乞いをしていました。聖ペーターと聖ヨハネにも施しを求めてきたのですが、聖ペーターは「金や銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」といい、彼が手を取ると男は立ち上がって歩けるようになりました。このエピソードは、初期の教会における使徒たちの奇跡的な力と信仰を示す重要な出来事として描かれています。
また、この上部には、カトリック教会によるあるヤハウェの文字があります。
聖櫃上部:レオポルド・クーペルヴィーザーによる『無原罪の御宿り』
主祭壇画は、1836年にオーストリア人画家であるレオポルド・クーペルヴィーザーによって手掛けられています。
『無原罪の御宿り』とは、聖母マリアが原罪を持たずイエスを宿したことを描いた場面です。ルカによる福音書1章28節で天使ガブリエルに祝福された場面などを根拠としていて、マリアが処女にも関わらずイエスを懐妊したことを指す処女受胎のことです。
クーペルヴィーザーはウィーン出身ではないものの、ウィーン美術アカデミーで学び、ウィーンで画家として暮らすなど、ウィーンに深いゆかりがあります。彼の結婚式には、ドイツ人作曲家のリヒャルト・シュトラウス(注:ヨハン・シュトラウスなどとは一切関係がない)が彼のために『クーペルヴィーザー・ワルツ』を作曲したなど、音楽会にも交流があったそうです。
参考文献
- Wien Geschichte Wiki, "Peterskirche"
- Peterkirche Wien
- St. Peter's Church Vienna, Schenel Steiner